ティエリー・ノアール、壁のアーチ スト

ティエリーは、「画家」とは違うということで、「反アーチスト」
のレッテルを貼られたりする。
本人自身もそのことにはこだわらない。「確かにちゃんとした樹も
描けないし」

不思議なことだろうか?ちゃんと歌えなくとも、思いを伝えること
のできる歌手だっていっぱいいるではないか。
ティエリー・ノアールは1982年にフランスの工業都市リヨンを
離れ、ベルリンへやって来た。

大学資格試験の後、ティエリーは手紙の仕分け係をやったり、工場
でベルトコンベアーに就いたり、税務署でコピー取りをやったりし
た。
仕事はどれも長続きすることがなかった。上役とどうしてもうまく
いかなかったからだ。ティエリー・ノアールはこう説明する。「な
んか皆と違っていたんだな。扇動者と思われていたんだ」

ちょっとすかした恰好でベルリンから里帰りしていた友達に再会し
たティエリーは、その地で新たな出発を始めようと決めた。当時ベ
ルリンはノイエ・ドイッチェ・ヴェレの震源地だった。デヴィッ
ト・ボウイ、イギィ・ポップの住むベルリン、その壁の街は「ケバ
ブ喰いの夢」が叶う地だった。

ティエリー・ノアールはとりあえずは知り合いの知り合いのいえで
過ごした。しかし早く別の場所を捜す必要に迫られる。壁の方向に
針路を取った。ルー・リードの歌が頭にあったからだ。「ベルリン
の壁際、なんてステキ、そこは極楽」

いつの間にやら壁の前にティエリーは立ち、右に曲がるとそこはゲ
オルグ・フォン・ラウホ館。ベルリン市立の若者センター。ここで
の居住を申し出た。

ティエリーは壁から5メートル離れた所に住む次第とあいなった。
最悪。窓から見えるのは壁と、その後方に建つ見張り塔。人民警察
は共和国逃亡者やそれらしき者を探し出すために定期的に投光す
る。20メートルばかり離れた向かい側の建物に人の姿はなかっ
た。カーテンの裏側にも、夏でさえ使われることのないバルコニー
にも人に姿はなかった。

1984年4月、ここに住み着いて2年目の或る日、クロイツベル
グ区での長い長い夜を繰り返した或る日、ティエリーはスプレー缶
を手に、住まいの前の壁に「時々パクリとやるワニ」を描きだし
た。
「満月の夜で、発作的にこの壁、この妖怪相手になんかやりたくな
ったんだ」
この突発行動は「別に攻撃的な気持ちになっていたんじゃなくて、
肉体の欲求だったんだ。壁になんかやってやりたいっていう。突然
変異みたいもんかな。自己解放のために何かやらざるを得なかった
んだ」

それはティエリー本人の突然変異の日であると同時に、今日まで存
在する壁アート革新の日であった。
この解放行為を通じてフリーター・ノアールより一夜にしてアーチ
スト・ティエリー・ノアールが現れ出たのである。政治的人間ノア
ールはついに自己表現の可能性を見つけ出したのである。

それ以来ベルリンの壁画も様相を変えた。それまでは「反ファシズ
ム防壁」には名前のみがスプレィされていた。ティエリー・ノアー
ルは新たな意匠を持ち込んだ。ティエリーは梯子を使って大きな顔
を描きだしたのだ。
それは危険な技だった。というのも壁は国境の向こう側、すなわ
ち、当時存在していた東ドイツの領土に属していたからである。

ついにその日が来た。或る夜、人民警察4名は、ティエリーを逮捕
しようと壁を乗り越えてきた。ティエリーは素早くその難を逃れる
ことができた。「ともかくスピードが肝心。速く、美しく、あつか
ましく」今日までティエリーのモチーブは変わることがない。色鮮
やかな顔、突き出した唇、でっかい出っ歯。

ティエリーはヴァルデマー通りを塗り、ポツダム広場を塗り、チェ
ックポイントチャーリーを塗り、マリアンネ広場を塗った。
併せて4キロメートルを塗った。だが誰もが賛同の拍手を送ったわ
けではない。

「資本主義芸術」となじる者がいた。ティエリーの壁画がいきなり
観光客を集めだしたからだ。壁を見栄えの良いものにして、壁にま
つわる悲惨のうわべを飾るものだとなじる者がいた。これはばかげ
た批判である。ティエリー・ノアールは自分のことを政治的人間と
考えており、壁アートを「政治的行動」と思っているのである。自
分の作品を修復するのもそのせいである。
とにもかくにもティエリーの作品は注目を浴びるようになった。
ヴィム・ヴェンダースが1987年に撮った映画「ベルリン天使の
詩」では壁のアーチストとして参加している。

知名度が絶頂に達したのは、自分の壁画を売却した会社を相手取っ
た裁判で、メディアに登場した時だった。1990年6月、モンテ
カルロにおけるオークションで、ティエリーの壁画は百五十万マル
クもの値で落札された。ベルリンの病院チャリテーを改装する、と
いう名目上は文句の付けられない目的があったからだ。未だにテャ
リテーにはこの会社からの振り込みはない。
ティエリー・ノアールは裁判に訴え、第三審で勝訴をおさめ、利益
の一部を受け取った。

成功の足場である壁が無くなったことをティエリーは悲しんだりし
ない。絵は未だに売れるし、注文もあるし、絵を描くことで生活で
きている。
その上ティエリーは次の突然変異を発見した。World Wide Webが
それだ。
これを見逃すティエリーではない。ついにディジタルギャラリーを
オープンした。これで世界中の人が絵を眺め、買うことができる。

http//www.galerie-noir.de
Email:noir@bln.de

「新世代は全共闘世代がやったよりもっと先に進むだろう。子供世
代と親世代との違いは当時よりも大きい。子供達が使う物でも、親
はその使い方を想像することすらできない。

いつの日か、親は子供によって電子の壁に取り囲まれ、脱出の手が
かりすら見つけられないような状況に陥るのではないか。
自分自身が電子の壁の前に立ってしまう日が訪れぬように、ティエ
リーはこれから先もっともっとこのメディアと親しんでいくつもり
とのこと。
「僕の絵はこのメディアにぴったりだし」

                                ティエリー・ノアール
                               回顧展1985年〜1996年

世界一巨大なコンクリート-キャンパスを見つけたティエリー・ノ
アールに我々は感謝する。
ティエリーの絵は、ベルリンの壁アートの中でも、最も容易くそれ
と判別できる独自のスタイルを持っている。その鮮やかな色使いと
メランコリックな詩心が、壁に描かれた他のどの絵よりもその命を
長らえさせた。
ティエリー・ノアールは1958年に、フランスはリヨンに生ま
れ、1982年1月にスーツケースを二つ抱えてベルリンへ来た。
当時ベルリンに住んでいたデヴィット・ボウイ、ルー・リード、イ
ギィ・ポップに惹かれてである。

1984年4月よりティエリー・ノアールはクリストフ・ブシェと
共にベルリンの壁に絵を描き始めた。描かれた壁はどんどん広が
り、国際アートシーンでも評価されるようになった。ティエリーの
壁画はドイツ統一後、新たな自由の象徴とみなされている。

1985       ファザーネン通りのレストラン「フォフィ・エスタト
リオ」の看板(ベルリン)

            カフェ「ミトローパ」の便所(ベルリン)

            「クーダムカレー」の工事用柵、ブシェとの共作

1986       ブティック「ドゥルヒブリック」の正面(ベルリン)

1987        ヴィム・ヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」、壁
のセット

1988       シャーロッテ・ノアール誕生

           映画館「グロリア館」の非常口(ベルリン)

           「グランドホテルエスプラナーデ」の駐車場、キデ
ィ・キトニィとの共作(ベルリン)

           レストラン、シルドホルンの20メートルに渡る装飾
壁(ベルリン)

1989       ベルリンの壁の裏側

1990        バンドU2の依頼でトラバント6台。これはシングルCD
「the fly」のカバーに使                われた。トラバント1台は現在ハード
ロックカフェに展示。(ベルリン)

        イーストサイドギャラリーの壁、1ブロック分(ベルリン)

        ゲーテインスティテュートの装飾用壁(アーヘン)

1991        ハイルマン輸送会社の壁

        日本で本が出版される。日本の子供に壁のことを語る。

        エレファント出版印刷社の正面

           ヴィム・ヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」、
壁のセットをもう一度
1992        二階建てバス(イギリス、カンタベリー)、テレビスタ
ジオと化す。

        ベヒシュタイン社のグランドピアノ。このピアノは人種差別反対
のコンサートで世                界を回り、有名な音楽家に弾かれる。

        ベルリンコンピューターネットのデジタルギャラリーに登場。世
界中から                        12枚の絵を眺められる。http://www.galerie-noir.de

        館の正面、バスルーム、木製の浴槽、箪笥、ガレージの扉、ベル
リンの壁20ブロ                ック(ポー      ランド、ヴロスラフ市、ソスノフ
カ)

1993        Tシャツメーカー「アルフレッド・ヒンメルヴァイス」の
室内壁12メートル

        「空港ホテルエスプラナーデ」のサウナ(ベルリン)

        音楽出版業「ルナパーク」の箪笥

        装飾壁25メートル(ドゥレーヴィッツ)

        イベリア航空の装飾壁

        イーストサイドギャラリーの壁30メートル

        屏風6枚、傘2本(リューデンシャイド)

        ジャン・ポール・ヤコブスの本「松露鹿」の表紙

        ボット氏別荘の壁時計29個(ベルリン)

        フランス領事館の飾り窓、ジム・アヴィニヨンとの共作(ベルリ
ン)

1994        モンテ-カルロラリー用の車、「オーペル、コルサ」

        「レニングラードカウボーイズ」のベルリンコンサートの美術

        「レイ・コンド」(カナダ)のベルリンコンサートの美術

        ベン・ベッカーのコンサートポスター(ベルリン)
        チェックポイントチャーリーの工事柵40メートル

        クラブ「Ex and Pop」の便所

        トゥレプトウ公園にある壁3ブロック

        「バイエーリッシェフェアアイン銀行」の入り口(ベルリン、シ
ュトラウスベルグ広場)
        9枚の絵を使った大きなパズル

        ゴルフクラブの壁(ポツダム)

        オランダのテレビ用にトラバントを1台

        SFB(テレビ局)主催のストリート-ボール大会の賞品用に木製の
壁を8ブロック

        ロシア製の車ラーダ、橋、トンネル(ヘルシンキ)
        クラブ「アンダーグラウンド」の室内壁(エストニア、タリン)

        雌ライオンを助けるために絵を24枚寄付

        チェックポイントチャーリーで絵を16枚、ブランデンブルグ門
で絵を6枚
        いずれもブシェとキディ・キトニィとの共作。11月9日の壁解
放5周年記念日に。

        「涙の宮殿」(旧検問所)の前の壁2ブロック、キディ・キトニ
ィとの共作

1995        マイバッハウーファーにある歯医者(ベルリン)

        ノーレンドルフ通りにあるアパートの正面(ベルリン)

        SFB(テレビ局)主催のストリート-ボール大会の賞品用に木製の
壁を8ブロック

        チェックポイントチャーリーで絵を12枚
        アメリカビジネスセンター工事現場の地下坑、深度13メートル
(ベルリン)

        ヘルシンキコンピュータネットのデジタルギャラリーに登場。世
界中から
        20枚の絵が眺められる。http://www.cultnet.fi/staff/
noir/

        パーティ「空っぽの夏」で絵(3x2メートル)を3枚

        ワインのラベル300枚をブシェと(ヘルシンキ)

        映画館「天使館」の室内壁5メートル、ロフトの室内壁5メート
ル、アパートの室                内壁9メートル(ヘルシンキ)

        グリューネヴァルトのある邸宅の正面玄関(ベルリン)

1996        ホテル「アルバトロス」のロビーの壁4メートルと柱5
本、階段、廊下、手洗い          (ベルリン)

        ファッションショウ「AVE」の舞台装置用に絵を10枚(3x2メート
ル)

        SFB(テレビ局)主催のストリート-ボール大会の賞品用に木製の
壁を10ブロック
        ストリートボールのゴール
        テレビ番組「スポーツ宮殿」の舞台装置

        ポツダム広場の壁6ブロック、キディ・キトニィとの共作

        箪笥と棚(ベルリン)

        鋳造業「ヘルマン・ノアック」の青銅像3体、アルミニウム像3

        イーストサイドギャラリーの壁31ブロックを描き直し

        ウォッカのラベル50枚

        「涙の宮殿」の壁描き直し

        500品の子供とイスを500脚、ユニセフ50周年記念行事

        ミッテ区のフリードリッヒシュタットパッサージェ内の店「カル
ティェ205」の                室内壁(5x3メートル、2x3メートル)(ベルリン)